私が小学校2年生の時(昭和42年)に、当院の前身である「西川内科医院」が誕生しました。入院設備があり、私たち一家や住込み看護師も同建物に居住していました。医療機関と患者さん、そして地域との一体感がある時代でした。
昭和52年、父の母校である岡山大学に入学。父は私以上に喜んでくれました。それから少しして、父は急逝し、それが最後の親孝行となりました。
父は体調が悪くても休むことなく、亡くなる前日まで診療を行っていました。
享年49歳、最期まで医師として生きぬいた父を誇りに思っています。
「西川内科医院」の看板が下ろされた時、いつの日か、もう一度この看板(旗印)を上げたいという、気持ちがそのとき芽生えました。
その後、大学や基幹病院での研究や学会活動に没頭し、消化器内視鏡専門医として内視鏡診断や手術に奮闘するなか「病気を治すため、医学の進歩のためという御旗のもとに、ひとりひとりの患者さんの苦痛や不便さ等が無視されているのではないか」という疑問を感じるようになりました。
やがて自分の理想の内視鏡の世界をつくってみたいという気持ちが次第に大きくなってきました。研鑽してきた内視鏡技術を駆使して、高い精度を保ちながら、苦痛のない内視鏡検査を行う。そして受診しやすく待ち時間も少ない診療所で、内視鏡検査が身近なものになれば、検査を躊躇していた方々も気軽に検査が受けられ早期発見にもつながるのではないか。精度が高く、楽な内視鏡検査を身近に、という思いで、平成11年10月に当院は開院しました。前身の西川内科医院の閉院から23年を経ての再開院でした。
父のつくった医院を引き継ぎ、もう一度「西川内科」の看板を上げたい、という思いと、専門の「消化器」を名称の中に入れたいと思いで、「西川内科・消化器クリニック」としました。
開院後、順調に内視鏡検査を行ってこられたことは誇りです。日本消化器内視鏡学会の評議員として、学会の推奨する医学的に正しい内視鏡を行うように努めています。内視鏡検査に際しては、副作用が懸念されるような余分な注射等は極力使わないようにして、内視鏡のテクニック自体で注射を使わなくても楽な検査になるように努め、一方でテクニックを過信することなく個々人の症状や状態に適切に対応するよう心がけ、総合的に最善の内視鏡検査となることを基本としています。
安全・安心の内視鏡検査は、当院の大きな特徴です。
昭和58年 3月 | 岡山大学医学部卒業 |
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4月 | 岡山大学第一内科入局 |
平成2年 9月 | 日本内科学会認定医 |
3年 2月 | 日本消化器内視鏡学会認定医(現専門医) |
4年 12月 | 日本消化器病学会認定医(現専門医) |
5年 1月 | 国立病院四国がんセンター内科(内視鏡室責任者) |
7年 6月 | 博士号取得 |
7年 12月 | 日本消化器内視鏡学会認定専門医(現指導医) |
岡山大学第一内科同門会奨励賞受賞 | |
8年 7月 | 日本消化器内視鏡学会 中国四国支部評議員 |
8年 11月 | 米国内視鏡学会国際会員 |
10年 9月 | 日本門脈圧亢進症学会評議員 |
11年 4月 | 国立病院四国がんセンター内科医長 |
11年 10月 | 西川内科・消化器クリニック開院 |
13年 11月 | 日本消化器学会 四国支部評議員 |
17年 5月 | 日本消化器内視鏡学会本部評議員 |
20年 11月 | 第101回日本消化器内視鏡学会四国地方会長 |
平成20年 11月
第101回日本消化器内視鏡学会四国地方会長